京都の社寺をめぐる際、その社寺に縁のあった歴史上の偉人がどんな人物であったのか、その生涯や性格などを知れば知るほど、その社寺に対する興味がさらに湧いてくる。
平安前期、第55代・文徳天皇の皇子として生まれた「惟喬(これたか)親王」。天皇の第1皇子として皇太子になる予定であったが、絶大な権勢を誇る貴族・藤原良房の娘・明子が第4皇子・惟仁(これひと)親王 (第56代・清和天皇) を産むと、皇太子は惟仁親王に決定した。聡明な惟喬親王は、後年、宮中を退いて出家し、比叡山の麓で静かに暮らしたという。一説に、惟喬親王は山中で伐った材木を木地のまま器などに成形することを生業にしたと伝えられ、後世、木地師の祖神として崇められることになった。現在、惟喬親王は玄武神社の祭神として祀られている。
本能寺の変で討たれた戦国の英雄「織田信長」。その霊を弔うために船岡山に寺院が建立される予定であったが、その後、天下は徳川家へと移ろい、約265年に渡る江戸時代が続く中、船岡山は信長の霊地として大切に守り伝えられたが、そこに寺院が完成することはなかった。そして、ようやく明治時代になり織田信長は戦国乱世を平定し朝廷の儀式の復興などに力を尽くした人物であるとして、明治天皇は信長の偉勲に対して神社の創建を命じた。現在、織田信長は建勲神社の祭神として祀られ、船岡山に鎮まっている。
洛北随一の禅寺として厳粛なる禅風を伝える大徳寺は、本能寺の変で討たれた織田信長の葬儀が執り行われて以来、戦国時代を生きた人物ゆかりの寺院が次々と建立され、戦国武将の石田三成や細川忠興をはじめ、茶道を大成した千利休も静かに眠っている。しかし、戦国の世を迎える前の大徳寺は、室町後期に勃発した応仁の乱で建物の多くを焼失して廃寺の危機にあり、その復興に大きな力を尽くした禅僧こそ「一休宗純」であった。とんち話しで有名な一休さんだが、これは後世の創作とされ、肖像画に描かれた一休宗純は乱れた頭髪に無精ひげ・・・、とんち話の一休さんの面影は微塵もなく、これが実像だと伝わっている。しかし、風狂に明け暮れたその姿は、どんなに外見が乱れようとも自分の内なる精神や信念は全く揺るがない、自らの自然体を貫く独自の生き様を逆に強く主張していたとも感じられ、その時その時を精一杯生きた一休宗純は、晩年、大徳寺の復興に尽力し、88才でこの世を去った。
有漏地から 無漏地へ帰る 一休み
雨降らば降れ 風吹かば吹け 一休宗純
煩悩の有る有漏地(うろじ)の世界から、煩悩の無い無漏地(むろじ)の世界へ。自然体を大切に、時に一休みしながら、私たちも無漏地への道を歩んでいきたい。
玄武神社
電 075-451-4680
営 境内自由
休 無休
所 北区紫野雲林町88
交 市バス停「大徳寺前」から徒歩8分
P なし
玄武神社ホームページ
建勲神社
電 075-451-0170
営 境内自由(社務所9:00~17:00)
休 無休
所 北区紫野北舟岡町49
交 市バス停建勲神社前」から徒歩9分
P なし
建勲神社ホームページ
大徳寺
電 075-491-0019
営 境内自由9:00~16:30(公開塔頭により異なる)
休 無休
所 北区紫野大徳寺町53
交 市バス停「大徳寺前」から徒歩すぐ
P あり
大徳寺ホームページ