京見峠と氷室 ~氷室の村から宮中まで 先ずは船岡山をめざし行列~

2021/12/16

京見峠並びに氷室へ行くには、千本北大路から鷹峯街道を北上し、ドンツキを西へ折れホテル然林房から山林を更にしばらく北上する。
すると、ポツンと一軒の茶屋が現れる。

京見峠

洛中北端の長坂口を出て、長坂・杉坂を通り丹波・日本海を至る道が、古くから開かれていた。
若狭街道、または西の鯖街道ともいい、若狭小浜から京の都に海産物や諸々の品を、夜を徹して運んだ。
若狭国方面から上洛する際、最初に京のまちを見下ろすことができた峠として知られており、京見峠と呼ばれていた。
今でも江戸時代に創業したという峠茶屋が一件残っている。
古くから歴史の痕跡を今なお残している、標高446mの峠である。

平安時代以降、氷室村から禁中まで氷を献上するに際し、京見峠から良く見えた船岡山をめざし行列が進んだと思われる。
今では、サイクリング愛好家の休憩所として活用されている。

(京見峠茶屋)

氷室と水無月

京見峠から北上すると、四方を山に囲まれた山間盆地が広がる。
地名の起こりは、当地より禁中へ氷を調達するための氷室が設けられたことによる。
村の入り口には、氷室神社が見え、村の西側の小高い丘の斜面に三ヶ所氷室跡がある。
平成6年(1994年)に京都市登録文化財(史跡)として登録されている。
神社前には駐車場がある。
京都一周トレイル北山西部コースとして道が整備されていて、氷室への標識もある。

池に氷が張ると、さらに水をかけて厚い氷を作り、それを切り出して貯蔵した。
発掘調査などから、直径5~8m、深さ2~3mのやや楕円形の窪地に杉の木の枝葉を敷きめ、板を敷き、木の枝葉や萱で覆って貯蔵した。
氷室から禁中まで、行列を仕立てて献上したのが習わしで、平安時代から東京遷都まで続いたと伝わる。
氷を葦、萱で覆って馬で運んだ、あるいは天秤棒に杉の葉で包んだ氷を担いで運んだという。

旧暦6月1日は「氷の節句」と呼ばれ、氷室から取り出した氷を口にすると、その夏を健康に過ごせると言われた。
しかし氷を口にできるのは宮中の高貴な人のみで、庶民にとっては夏の氷は手の届かない代物であった。
そこで考え出されたのが、京都では6月に和菓子屋さん並ぶ「水無月」(みなづき)である。

(船岡山は、御所に向けて氷を運ぶ際のランドマークとされた)
(氷室内部の復元図(発掘調査報告書と住民からの聞き取りより描いた ))
(氷の代物 和菓子の水無月)
(氷室のくぼ地跡)
(氷室跡の石碑)

鷹ヶ峯から5㎞程の山間部に氷室の村がある。
体力に自信があれば、サイクリングがお勧めだ。車なら、離合のため大型車は避ける方が賢明である。
遙か昔の平安時代から氷室の村から宮中まで、行列を仕立てて氷を献上される姿を思い浮かべると、感無量である。都会の喧騒を避け、一時の安らぎが得られる場所であり、是非訪れてみてはいかがだろうか。