今から430年ほど前の戦国時代末期に、荒廃した都のほぼ中央に突然、黄金に輝く天守閣が出現した。 船岡山から眺望した町衆は、さぞ驚嘆したに違いない。船岡山から南南東約1.7㎞中立売通智恵光院付近に巨大な城郭が現れたのである。しかし、建築から8年、豊臣秀吉が大阪から移り住むことわずか4年でこの城郭は、痕跡までも歴史から消されてしまった。
天正13年(1585)に関白となり天下の実権を握った豊臣秀吉は、金箔瓦が輝く政庁兼邸宅「聚楽第」を建てはじめ、2年後に完成させた。京都における本格的な邸宅を必要としたのである。「聚楽」とは「長生不老の楽を聚むる」を意味している。
「聚楽第」の惣構えとして京都を取り囲む22.5㎞に及ぶ土塁「御土居」も築いた。「御土居」の内側を洛中、外側を洛外と言った。北は鷹ヶ峯までとし、当然「船岡山」も洛中に含まれた。人々があまり居住していない北部まで「御土居」が延びていたのは、大徳寺が含まれたり、北西鷹ヶ峯からの防御であったり、上賀茂からの堤を築き、洪水を防ぐ目的があったと推察される。
京都盆地には吉田山、双ヶ岡、船岡山の3つの岡という低い山が今でもあるが、洛中にあるのは船岡山だけである。秀吉は織田信長の葬儀を船岡山で計画したが、実現できず大徳寺総見院で行われた。船岡山の山頂付近には磐座が鎮座し、聖域だったのが原因とも考えられる。
「聚楽第」を中心として大名屋敷が設けられ、市中は平安京の条坊制による正方形地割を短冊形地割に変え(天正の地割)、また禁裏御所は大改修されてその周辺に公家屋敷が集められ、市中の寺院は移転させて寺町・寺之内を造るなど、後の城下町のモデルとなった。京都の大改革を行ったのだ。
「聚楽第」へは後陽成天皇の行幸もあり、北野天満宮では北野大茶会が催される等、京都は秀吉の権勢により華やかな時代を迎えた。
「聚楽第」はどのような城郭であったのかは、残された絵図から知ることができる。
大きく内郭と外郭の二重構造になっている。内郭は北から北之丸、本丸、西之丸、南二之丸によって構成され、内部には金箔瓦で飾った天守や隅櫓、檜皮葺の御殿などの建物が描かれている。そして、外郭には堀に架かる橋や大手門が造られていた。
優雅な御殿であり、堅固な城でもあった「聚楽第」は、甥の豊臣秀次に譲るも、秀次が謀反の疑いで処罰されると、わずか8年で破棄さた。その後、跡地には西陣のまち並みができ上っていく。現在では、当時の姿は見ることはできないが、その様子の一端を地形に残る窪みの跡やゆかりの町名に垣間見ることができる。「聚楽第」大名屋敷跡からは、金箔瓦が多く出土されている。