連載『紫式部の足跡をたどる』 第1回 紫式部ってどんな人? ~前編~

2024/4/12

『源氏物語』は、千年の時を超え、国内外で読み継がれてきた日本最古の長編小説。作者である紫式部は、2024年の大河ドラマ『光る君へ』の主人公として注目が高まっています。じつは、ここ船岡山エリアは、紫式部ととてもゆかりの深い場所なのです。

この連載では、そんな紫式部ゆかりの船岡山エリアのスポットをご紹介!さらに、船岡山エリアを飛び越えて、北区内のほかの地域やその周辺にあるスポットも合わせてご紹介します。
しっとりと落ち着いた町並みを歩きながら、紫式部の足跡をたどってみませんか。

紫式部ってどんな人? ~前編~

紫式部が女流作家として活躍したのは、いまから約千年前の平安時代中期のこと。三十六歌仙に名を連ねた藤原兼輔の子孫にあたり、和歌や漢詩に秀でていた藤原為時(ためとき)の娘として、970(天禄元)年~978(天元5)年頃に生まれたと伝わります。早くに母を亡くし、父の蔵書に囲まれて育った紫式部は、幼い頃から和歌や漢詩に親しみ、その才能を研ぎ澄ませていきました。

紫式部が暮らし、『源氏物語』を綴った邸宅は、京都御所東側の「中川」と呼ばれたあたりですが、生まれたのは「紫野」(現在の今宮神社~大徳寺界隈付近)と伝わります。

(北大路通沿いにどっしりと構える大徳寺)
(紫野を象徴する大徳寺は、20の塔頭と2つの別院からなる禅の名刹)

平安時代のはじめ、紫野一帯は狩猟が行われるような広大な荒野でしたが、淳和天皇が宮中の北方に離宮「紫野院」を造営して以来、桜や紅葉の名所となりました。風雅な趣をたたえた紫野院が「雲林院」という名の寺院に改められたのは、紫式部が生まれる100年ほど前のことでした。

(真珠庵は、「一休さん」として親しまれる一休宗純が室町時代に創建)

鎌倉時代になると、広大な寺域を誇った雲林院の敷地に大徳寺が建立されました。塔頭のひとつ、真珠庵の境内には、紫式部が生まれたときの産湯に使ったと伝わる井戸が現存しています。

(いまも水が湧き出る紫式部産湯の井戸。左側は茶人・村田珠光遺愛の手水鉢)

真珠庵は通常非公開ですが、毎年秋に特別公開を行なっています。2024年は9月20日(金)~12月8日(日)(※10月21日は休み)で、源氏物語にちなんだ秘蔵の絵画や、2018年に披露されて話題を呼んだ、新しい襖絵の再公開が予定されています。

~船岡山エリアから少し足をのばして~

真珠庵からさらに北へ2kmほど歩き、御薗橋を渡って賀茂川の対岸へ。世界遺産・上賀茂神社(賀茂別雷神社)の鳥居が現れます。

楼門前の片岡社(片山御子神社)に祀られているのは、上賀茂神社のご祭神である賀茂別雷大神の母神(賀茂玉依姫命)。平安時代から、縁むすび、子孫繁栄、安産の神として信仰を集めていたことから、紫式部も参拝に訪れたと伝わります。

(左:上賀茂神社の楼門前に立つ片岡社。本殿にお参りする前にこちらで手を合わせて/右:片岡社の前には、平安時代の女性をモチーフにした絵馬が鈴なりに掛かる

『新古今和歌集』には、紫式部が片岡社を訪れたときに詠んだ、こんな歌が綴られています。

 ― ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし ― 

ほととぎすとは将来の結婚相手を指し、「いつかめぐり逢う愛しい人の声を待っている間、この片岡の社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう」という意味。ロマンチックな一句ですね。