連載『紫式部の足跡をたどる』 第2回 紫式部ってどんな人? ~後編~

2024/5/29

『源氏物語』は、千年の時を超え、国内外で読み継がれてきた日本最古の長編小説。作者である紫式部は、2024年の大河ドラマ『光る君へ』の主人公として注目が高まっています。じつは、ここ船岡山エリアは、紫式部ととてもゆかりの深い場所なのです。

この連載では、そんな紫式部ゆかりの船岡山エリアのスポットをご紹介!さらに、船岡山エリアを飛び越えて、北区内のほかの地域やその周辺にあるスポットも合わせてご紹介します。
しっとりと落ち着いた町並みを歩きながら、紫式部の足跡をたどってみませんか。

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紫式部ってどんな人? ~後編~

(堀川北大路から南へすぐの場所にある紫式部墓所)

「紫式部ってどんな人?~前編~」では、紫式部生誕地と伝わる紫野や、産湯の井戸が現存する大徳寺塔頭の真珠庵、さらに、紫式部が参拝し、将来の結婚相手に思いを馳せて歌を詠んだ上賀茂神社をご紹介しました。今回は、紫式部の後半生にまつわるスポットをご案内します。

紫式部は20代後半のとき、越前守に任命された父の為時とともに都を離れて越前へ。1年ほど経った後、父を残してひとりで帰京し、遠戚にあたる藤原宣孝と結婚しました。ひとり娘の賢子を授かり、穏やかな時を過ごしますが、宣孝が病没。結婚わずか3年でシングルマザーになってしまったのです。

このころ、孤独を紛らわすかのように執筆をはじめたのが『源氏物語』だといわれています。やがて物語の評判が宮中に広まり、藤原道長の目にも留まって、道長の娘・彰子に仕えることになるのです。

(向かって左側が紫式部、右側が小野篁の墓)

紫式部が亡くなったのは、『源氏物語』のほか、『紫式部日記』、『紫式部集』を遺したのちの40代半ばと伝わります。

紫式部のお墓は、かつて紫野で広大な寺域を誇った雲林院の境内跡地にあります。

路地の奥に紫式部のお墓と小野篁(おののたかむら)のお墓が並んでいるのですが、なぜ生きた年代が異なり、縁のないはずのふたりが同じ場所に……?

その理由は――紫式部は作り話で人々の心を惑わしたため地獄に落ちたと後世で噂されるようになり、気の毒に思った人々が、閻魔王に仕えた小野篁の墓と並べることで救おうとしたのだとか。『源氏物語』が多くの人の心を揺り動かすほどリアリティのある物語だったことが垣間見える逸話です。

(船岡山の東側に立つ建勲神社の大鳥居)

紫式部は、藤原道長と倫子の娘で一条天皇に嫁いだ彰子に仕え、家庭教師的な役割を担っていたのですが、先に一条天皇に嫁いでいた定子(道長の兄・道隆の娘)に仕えたのが、清少納言。その清少納言ゆかりの地が船岡山です。清少納言みずから山に登ったのかは定かではありませんが、『枕草子』231段で、「岡は船岡」と称えたことで知られています。

(建勲神社東参道にて)
(建勲神社境内から東方面を望む。頭一つ高い山が大文字山)

建勲神社の東参道から船岡山を上がっていくにつれ、京都市街が広く見渡せるようになってきます。また、境内を抜けて船岡山の頂上(標高111.89m)に立てば、衣笠山から伏見稲荷までのパノラマが楽しめます。

~【番外編】船岡山エリアから少し足をのばして~

船岡山のふもとから千本通を南へ徒歩10分ほどの場所に建つのは、閻魔王を本尊とする千本ゑんま堂(引接寺)。かつてこのあたりは、鳥辺野、化野とともに三大葬送地とされた蓮台野の入り口でした。 境内の西端にそびえる高さ6mの塔が紫式部の供養塔で、国の重要文化財に指定されています。地獄に落ちたと噂された紫式部を不憫に思った円阿上人が、1386(至徳3)年に建てたと伝わります。

(左:供養塔に寄り添う紫式部像は、式部千年紀のときに設立/右:千本ゑんま堂の境内に立つ紫式部の供養塔)

平安の世に生きるひとりの女性として紫式部が何を思い、物語を紡いでいったのか。その生涯に思いを巡らせながら、ぜひ船岡山エリアを歩いてみてくださいね。