連載『船岡山と私』 第6回「船岡山と和歌」~歌人:林 和清さん編~

2024/8/2

毎回、その道のプロフェッショナルの方や地域にお住いの方などに、船岡山とその周辺の魅力を教えていただく連載「船岡山と私」。
第6回目は、【歌人】林和清さんに「船岡山と和歌」をテーマにご紹介いただきます。

【林和清さんのプロフィール】

第6回「船岡山と和歌」~歌人:林 和清さん編~

歌人のプライド

大河ドラマ「光る君へ」にも登場した円融(えんゆう)天皇。歌舞伎役者の坂東巳之助(ばんどうみのすけ)が演じていた。
その円融天皇は、藤原氏に退位をうながされ上皇となったとき、船岡山で園遊会をもよおされた。円融天皇が園遊会……ダジャレではない。

寛和元年(985)2月15日のこと。当代一流の歌人たちを呼び集め、和歌の会がくりひろげられた。召された歌人は、平兼盛(たいらのかねもり)・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・源重之(みなもとのしげゆき)・紀時文(きのときふみ)ら。ほとんど百人一首に歌がえらばれている有名歌人ばかり。

しかし、お呼びがなかった歌人もいた。
それが曽根(そねの)好忠(そねのよしただ(よしただ)。この人だって、「由良の(と)を渡る舟びと梶を絶え行方も知らぬ恋のみちかな」の歌が百人一首にえらばれている名歌人のはず。

「歌詠みを召す、ということなら俺が行かなくてなんとする」と、好忠は粗末な装束としわくちゃの烏帽子で船岡山へ向かった。礼装に身を固めていならぶ歌人たちの座に割りこんで座った。

「あれは誰が呼んだ?」
「いや誰も」
「あいつは呼ばれないのに来たのか」
「つまみ出せ」

と、役人たちにうしろから襟首つかんで引きずり出され、さんざん蹴られ踏まれ泥だらけ。ようやく逃げた好忠は船岡山に露出している岩盤の上にのぼって「俺は何ひとつ恥じることはない。歌詠みを召すというのに俺がこなくてどうする。呼ばれたやつらよりずっと良い歌を詠んでやる。」と精一杯の見栄をはったが、その姿は泥だらけでみじめなものだった、と言う。

「今昔物語」などに載り、好忠の偏屈ぶりが語り伝えられる逸話だが、わたしは好忠にはゆずれない歌人のプライドがあったのだと思う。歌人の中にひとり、親の七光りだけで召された紀時文がいるのを知って居ても立ってもいられなくなったのではないかとも思う。
紀時文は大歌人・紀貫之の息子だが、百人一首に選ばれていない凡才だった。踏まれ蹴られ笑われても、あいつより俺の方が歌の上手いことだけは確かだ、というプライドが彼を支え、長い歴史の中では名歌人として名を残すことになる。一方、紀時文の歌は消え去ってしまっている。

風光明媚な船岡山でひらかれた園遊会は、和歌の歴史の忘れられない逸話の舞台となっているのだ。

鳴けや鳴けよもぎが杣(そま)のきりぎりすすぎゆく秋はげにぞかなしき

杣とは森のこと。よもぎが森になるはずはない、と当時の人から「気が狂ったか」と非難された歌だが、よく読めばわかる。これは虫の視点なのだ。虫にしたらよもぎも森だ。こういう視点をもったのが曽根好忠。後に名歌中の名歌と評価が高まったのも当然である。

(船岡山の岩盤の前にて