京都は、2億年前は海の底で、放散虫というプランクトンが大量に堆積し、硬いチャートの地層が形成された。京都盆地には500万年の歴史があり、チャートの地層(中・古生層)の上にやや軟らかい地層(大阪層群)、川の力でたまった礫の地層(沖積層)が堆積された。その後200万年前ぐらいから、この地層に地殻変動の力が加わり、真中が落ち込んで盆地になったと考えられている。盆地には断層で取り残されたように硬いチャートの岩盤の岡がある。それが、船岡山なのである。
船岡山の西側には金閣寺・北方の丘陵地には鷹ヶ峯・すぐ北には大徳寺と名所旧跡が点在し、観光客の見印として船岡山は活用されている。船岡山は千本通の真北、蓮台野の東に位置する標高112m、比高40mの孤立した丘陵である。長い地質学の歴史上、京都盆地に置き忘れられた丘で、山としてはすこぶる小さい。山の形が舟を伏せたように見えるところから、その名がついたと言われている。また、堀川の源流は、この山の南斜面の涌き水と聞く。
山頂には盤座があり、古くは信仰の対象であったと考えられている。船岡山を大内裏のうしろ・北にひかえる玄武(北方に配する四神の1つ)として位置づけて、船岡山を基点に、その正面の方向に朱雀大路を定めたという考え方が1つの説となっている。
頂上から市街を一望することができる素晴らしい展望スポットだ。衣笠山から龍安寺の森を隔てて仁和寺の五重塔、さらに兼好法師ゆかりの双ヶ丘の展望は、煙雨の時など見事な水彩画を見る心境である。清少納言をして「丘は船岡」と言わしめ、この丘は王朝貴族の遊宴の地とされていた。また古来清浄の地として祭祀が行われ、古くは五穀を食い荒らす害虫をはらう祭りを行われたことがあり、今宮神社の疫神もはじめは船岡山において祀られたものである。
中世、室町時代以降の船岡山は、応仁永正の乱では陣取り合戦が行われ、多くの人々の血が流された。今でも野仏が多く残存し、当時の面影が残る。城もつくられ、土塁や空堀が残り、多くの中世城郭研究者が訪れている。
明治天皇は、織田信長の朝廷復興の業績を称え、建勲神社の社殿を明治13年に山麓に新たに造営し、祀った。明治43年には山上に移築されている。船岡山は、建勲神社境内および船岡山公園になっているが、植物相も外来種が殆ど侵入せず貴重な森である。
毎年8月16日の大文字の送り火の夜、この山は最も多くの人で賑わう。現在、市民の憩いの場として24時間開放されている。