紫野はどこ?
京都盆地のランドマークの一つである『船岡山』山頂から四方八方の山麓を見渡すと、ほぼ紫野地域である。大雑把に言うと、東は堀川通り、西は千本通り、南は鞍馬口通り、北は北大路通りを囲む地域なのである。
この地は、平安京のエリア外で、内裏の北方は天皇や貴族の遊狩地であり、禁野であった。平安京が廃れると、都の北側を洛北と言い、内野、上野、北野、萩野、紫野、平野、蓮台野を洛北七野と称するようになった。現在でも地名として残っている。紫野の地名は、染色に使う紫草が生えており、その色がたなびく雲に映って紫になったと言う説がある。紫は高貴な色とされ、昔は天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であった。一方、村の先から転じて紫野と言ったかも知れない。
紫野で活躍した紫式部と斎王の女性について紹介する。
(1)小野篁・紫式部の墓
室町時代の古文献には雲林院の東南に、紫式部の墓が小野篁の墓の横にあると記されている。紫式部が生まれたのは小野篁が没して120年程が経ってからで、両者は面識がない。二人のお墓は、北大路堀川下る西側の塀に囲まれた一角にある。
室町時代の古文献には雲林院の東南に、紫式部の墓が小野篁の墓の横にあると記されている。紫式部が生まれたのは小野篁が没して120年程が経ってからで、両者は面識がない。二人のお墓は、北大路堀川下る西側の塀に囲まれた一角にある。
源氏物語は、貴族社会の恋愛を中心とした物語である。人々の愛欲を書いた紫式部は、ふしだらな絵空事で多くの人々を迷わせたとして、死後は地獄行になった。そして、紫式部が地獄に落ち苦しんでいると聞いた源氏物語を愛した人々は、篁の墓を隣に移動させ、彼女を救って欲しいと願ったのである。
小野篁は、昼は朝廷の役人を勤め、夜になると井戸を通って冥界に行き、閻魔大王の下で冥官として仕えていた。篁は紫式部の苦しみを閻魔大王にとりなして救ったと伝わる。篁は、現世と冥界の調停役だったのである。そのため、紫式部の墓は篁の墓と隣り合って作られた。
口伝とはいえ面白いものである。
(2)斎王 櫟谷七野神社(賀茂斎院跡) 春日神社
賀茂斎院は、大宮鞍馬口南西に位置し、賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所であり、約150m四方の地を占めていた。斎院は、内院と外院とで構成され、毎年催される賀茂神社の祭(葵祭)には、斎王は、ここで清浄な生活を営み、賀茂神社に奉仕した。現在では市民から斎王代が選ばれ、直接賀茂神社に奉仕している。
歴代の斎王には才媛がなり、歌壇としても知られ、斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院にはほぼ500人の官人や女官が仕えており、女官には秀れた歌人が少なくなかった。
現在でも、葵祭にはヒロインが重さ15㎏にもなる十二単をつけ、身を清める斎王代禊の儀が賀茂神社の川で行われている。神社の周辺に築かれた石垣には秀吉の命で寄進した大名の刻印が今でも残る。
地元では春日神社として親しまれて、神獣である鹿の像が立っている。