紫野を読み解く -絵図、測量図から-

2021/11/26

まちに人々が住みだすと、そこに歴史が形成されていく。
今を生きている私たちは、昔の様子を残された絵図や測量図で読み解くことができる。
船岡山周辺の四枚の絵図や測量図を並べて、見比べて見ると、とっても面白い。
昔のことを知り、現在を大切にして生きる事は、とても興味がある。
絵図や測量図をながめながら、頭の体操をしてみましょう。

(1)天保2年(1831年)絵図

190年前に描かれた絵図であるが、大徳寺が大きく書かれ、堀で囲まれていて外敵からの防御施設と考えられる。
今宮社、今宮御旅所、七ノ社、舟岡山の記名が見られる。
船岡山の西南には千本火葬場も記されている。
千本通、大宮通、新町通、室町通の南北の主要な通りが見られる。
玄琢方面からの若狭川の流路や賀茂川からの流路も見られる。
町は南面の上京まで発展しているが、街道筋の千本通と大宮通に民家が見られ、それぞれの街道は鷹峯や西賀茂・上賀茂・貴船鞍馬に繋がっている。
北側と東側の太い黒色の帯は、1591年(天正19年)豊臣秀吉が築いた御土居の跡である。
御土居が当時の町並みの北東部にわたって築かれたのは、賀茂川の氾濫を抑える役割りがあったと考えられる。

(2)明治42年(1909年)測量図

112年前の測量図であるが、まだ船岡山は公園に指定されておらず、北山麓に池の跡も見られる。
船岡山周辺は、大半は畑地であるが、新町通りや室町通が北に延び出している。
建勲神社もまだ東山麓にあり、南側には鞍馬口通が通っており、第二疏水流路も見られる。
京都府師範学校や紫野織物工場も記されている。
タヌキやキツネ・ノウサギが生息していたに違いない。
人々が多く住みだすようなインフラは未整備であった。

(3)大正11年(1922年)測量図

100年前の測量図であるが、測量技術も進んだ。
等高線を見ると、鷹ヶ峯からの扇状地の地形が読み取れる。
船岡山周辺はまだ畑地が多く、建勲神社は山麓から東山頂に移されている。
等高線を見ると、陣取り合戦の砦が築かれた自然の要害であるが、山の北西部はなだらかである。
山の北西部の中腹に点線が記されているが、土塁と空堀のようである。
現紫野高等学校は、紫野中学校と記されている。
東西南北の通りが整備されてき たが、北大路通や勿論堀川通も整備されていない。
現在のような北大路通りからの今宮神社参道もない。

(4)昭和26年(1951年)測量図

70年前の測量図であるが、北大路や千本通りには市電が走っていた。
幼少の頃、市電が走る音で目覚めた記憶がある。
船岡山も公園に指定され整備されだし、24時間365日市民に開放された憩いの場となった。
船岡山の周辺には人々が住みだし、ほぼ今の様な町並みが形成されてきて、町名も記されだした。
現紫野高等学校は淑女学校であり、佛教大学も記されている。
今宮神社参道も北大路通りより真直ぐ北につくられた。
堀川通りと紫明道の交差付近は、未整理であった。